不足も悪くない
2019年6月19日 自宅
昨日に引き続き、今日も熱が下がらない。上半身の関節がズクズク疼いているのでスマホすら持てない。横になっているしかないようだ。こんな日は空想で遊ぶ。とりとめもないことを夢想していると、ふとアイディアが浮かんだりする。それなのに書き留めるための力すら入らない。頼れるのは脳の記憶領域だけだ。私の集中力がいいとするならば、どう考えても原因はこれである。高熱と激痛の最中に集中できるならば、普段なら楽勝だ。病いが鍛えてくれたスキルは多い。
試合でも、仕事でも、勉強でも、理想通りの条件が揃うことはまずない。これは組織でも、個人でも変わらない。かける投資規模の大小に差があるだけだ。不足に文句を言っても現状は1㎜も動かない。使うべきは口ではなく頭だ。
私は不足だらけの人間だ。毎日、活動することもできない。活動できる日も10時間以上を使えることはまずなく8時間ぐらいだ。月平均にすれば、1日の実働時間は6時間ぐらいだろう。おまけに1時間作業を続けると熱が上がりだす。自宅では動いては休み、動いては休みというシーソー状態だ。まどろっこしい。
この現状に不満を持ったところで意味はなく、それどころか悪化して寝たきりにリターンだ。不足を数える暇なんぞない。そんな時間があったら、出来ることを探す。
セミナーや勉強会に参加するとき、その中で自分は集中力トップクラスだと生意気にも思っている。なぜならば、準備が他とは違うからだ。例えば1回3時間の外出のために調整期間が1週間はいる。当日に参加するための体調調整、参加後の体調悪化を回復するまでの期間設定だっている。スポーツ選手が試合に身体のピークを合わせるような調整をして集まりに参加する。そこまで時間を使っているのだから、無駄にはしないという気合が違う。最大限に学びを得るために下調べも出来る限りしていく。メモは最低限しかとらない。基本的に脳に直接書き込むイメージで挑む。おかげで家に帰り着いたら、いつもグッタリだ。ここまでしている参加者が多くないのは、二次会でリサーチ済みである。
「いいとは思うけれど、行動には移せない」
こう思える人を羨ましく感じる。長寿だという自信があり、気軽に参加できる余裕がある証拠だ。明日があると信じられる人にしか抱けない感情だ。私がそんな感情を持つ日は一生来ないだろう。
不足というのも悪いことばかりではない。工夫や真剣さは足りないからこそ生まれる。「挑戦しておけばよかった」と後悔するのは余裕があった人だ。ある程度は満たされていると現状を変えるチャレンジをしない。リスクを取ってまで挑戦しようとする強い動機がないからだ。そして足りない経験が少ないから不足に耐性がない。
どんな人も加齢と共に出来ることは減っていく。その時に後悔の渦が襲ってくる。不足を受け入れて挑戦できたり、あるものに感謝できるのは足りなさを克服した人だけだ。そんな経験がない人の多くは不平不満だらけの道を進んでいく。その道の先は明るくない。待っているのは孤独な世界だ。愚痴だらけの人に他者が寄っていくだろうか。人生という目でみれば、不足は素晴らしい贈り物だ。
人類を発展させたのは飢えである。
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