SEO対策はなんのため?
2019年6月24日 自宅
ブログについて調べると、必ず見かける文字は”SEO”だ。検索ワードと表示される内容が違うことにGoogleは激怒しているようで、表示順の基準の変更が激しくなった。ウィルスセキュリティと同じで、対策をしても別の方法を探される。SEOの文字を見かける度に脳内でカーレースの映像が流れるようになった。いつだってデッドヒート、勝敗は見えない。
誰かの目に触れる対策、これはとても大事だ。誰にも知られなければ、存在しないのと変わらない。だが、忘れてはいけないことがある。「なにを発信しているか?」、これを疎かにすると、それまでの努力が無駄、どころで済まない事態になる。
ブログの読者数、ツイッターのフォロワー数、ユーチューブの再生数、アクセスの数で評価されるのが当たり前の時代だ。アクセスの数で仕事の単価や採用に影響があると聞いている。広告をひも付けしていれば、直接収入にも反映する。多くの人がアクセスを増やそうと躍起になるのも無理はない。そして、忘れてしまう。「なぜアクセスを増やしたかったか」を。
あくまで検索サイトで表示されやすくなる”SEO”は、広める効果を狙ったものだ。中身の質を上げてくれるものではない。アクセスが増えた時、質が高くても批判が増えたり作業が増加したりするなど、予期せぬ問題は起こる。「もし質が悪かったら?」信用失墜とトラブルのコンボが待っている。
ツイッターで観察していて気づいたのだが、アクセスを短期で増やした人の多くは1年以内に消えている。最初は継続が難しいのが原因と安易に考えていた。それが理由では説明できない対象があった。稼ぐ系は継続では説明ができない。ウソを言っている人を除いても、儲かっているのに辞めた人が多量にいる。収入という利があるのだから、継続するメリットは大きい。それでもアカウントごと消え去る。なぜか?
ネタが続かない。
文章でも、絵でも、商売でも、どんな分野であれ受け手に喜ばれ続けるのは高難易度だ。質の向上は常に必要で終わりはない。提供する人数が増えるほど、求められる質も上がる。ここにアクセス向上の罠がある。
100人に喜ばれる。
10,000人に喜ばれる。
3階建ての雑居ビルと100階建ての高層ビルの建築並みに差がある。使う道具どころか原材料の質すら問われるレベルだ。例えば文章ならば、無料の情報をかき集めて書くか、取材に万単位のお金をかけるかの違いだ。これは原材料の差でしかない。他にも筆者の経験や読書量など、書き手の文章作成能力だけでは補いきれない壁がいくつもある。短期間なら誤魔化しきれても、時間が立つほどに価値の薄さが現れてくる。
多くのアクセスがほしいなら、多くの人が欲しがる価値を提供する義務がある。その義務を果たさずにアクセスから得られる利を貪っていれば、現実が徴収に迫ってくる。そして、この徴収には負債が乗っている。それがトラブルや信用を失う形で現れる。そんなマイナス面を消化しながら質を向上できる人は極稀だ。これが儲かっているのに辞めた人たちが多くいる原因だと推測した。広告だけに力を入れて潰れる会社の末路に似ている。アクセスを増やすのは、あくまで補助で中心ではない
背伸びのまま
歩き続けることはできない。
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