疑う、疑う、疑う
2020年1月25日 自宅
「まただよ」
悲しい気持ちになった。
私ははてなブログだけでなく、Twitterにも投稿をちょこちょこしている。ブログとは違いTwitterは140文字しか投稿ができない。伝えたいことを、いかに短くまとめるか。文章力アップのいい訓練になっている。
またTwitterは情報収集のいい対象だ。広く知られる情報の最速はTwitterだ。海外の情報を手軽に読めるのもいい。どうしても日本の情報だけだと目にする情報が偏ってしまう。日本語で発信される海外の情報はごく一部だ。詳しく知りたいと思えば、多言語の世界に飛び込むしかない。今は機械翻訳のレベルが上がったので、とても楽になった。それでも辞書は手放せないが。
そうすると、たまに気づく。
日本で広まっている情報がズレていることを。
そして、ズレた情報を元に多くの人が言い争いをしていることを。
情報が正確かどうかを調べず、
相手がおかしいと言い争いを続けている。
なぜ、大本の情報を調べないのだろうか?
空しい争いとしか言いようがない。
これはTwitterに限った話じゃない。
対面でもよくある話だ。
接客をしていた時代、最も困ったのはお客様の思いこみだ。誤った情報を元に商品を探しに来られる。それは情報が違っていますよと伝えても、なかなか納得されない。なにも情報がない高齢のお客様に契約内容を理解してもらう方がよっぽど楽だった。相手の思いこみを解くのは、言葉の通じない相手に道を教えるよりも難しい。
情報はまず疑うものだ。「教科書が間違っていることがありますよ」、このセリフを何度否定されたことか。もし間違っていないなら改定なんていらない。私が学んだとき、鎌倉幕府の成立は1192年だった。今の教科書では1185年と記されている。過去の情報である歴史ですら、確定の情報ではない。
人はある3つのパターンに弱い。
どれかに当てはまると、疑いもせず信じてしまう。
まず疑いにくいのが、情報の発信者に肩書きがあるときだ。 国の、学者の、成功者の、自分がすごいと思っている肩書きがつくと、それだけで正確な情報だと受け取ってしまう。けれども、肩書きは情報の正確さをはかる参考にはなるが証明にはならない。ちなみに私は線維筋痛症という病気だが、この病気を患っていると診断されるまで30年以上かかった。神経痛、ストレス、自律神経失調症など誤診された回数は数えきれない。
次に疑いにくいのは、自分の意見を正しいと思わせてくれる情報のときだ。人は自分の意見を肯定する情報を好む。この情報が多数派の場合、間違っているかもと疑う人はほとんどいない。だが、賛成者が多いことは正確さにまったく関係がない。もし賛成者の多さが正しさだとするならば、地球は平らな地面になってしまう。古代は、その考え方が常識だった。
そして、最も疑えない情報はこれだ。
自分の得た知識
自分の持っている情報を、きっかけもなく疑える人はほとんどいない。自分の知識と違う情報が飛びこんできた場合、多くの人がはじめに浮かべる考えはこれだ。
「この情報は間違っている」
情報の正確さを調べる前に判断をしてしまう。そして、この判断を肯定してくれる情報を探してしまう。恐ろしいのが、どちらも無意識だということだ。自分は正しいと思いたがる、人間の悪い癖だ。
だからこそ、まず最初に疑う対象は自分である。
「事実をありのままに受け止めているだろうか?」
常に、私は自分に問いかけている。
無意識に任せると、自分好みの情報ばかりを集めてしまう。なので、日ごろから自分とは違った視点で物事をみている発信者の情報を読みにいく。読んでいるだけでムカムカしたり、反論したくなるような情報をあえて読む。そこまでして、やっとバランスがよくなる。
ここで注意点がある。
疑う気持ちが強すぎて、自信が消滅する人がいる。
自分の考えを疑う。
自分の可能性を疑う。
このふたつはイコールじゃない。
これを勘違いすると「自分は何をやってもダメな人間だ」なんて、思いこみが始まってしまう。疑うのはあくまで情報を分析するときだけだ。24時間、すべてを疑い続けたら心が壊れてしまう。疑うのと同じくらい、信じるのも大事なのだ。
最も疑うべき相手は自分だが、
最も信じるべき相手も自分である。
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