歩くリトマス試験紙の反応記録

『ありのままに、ゆったりと、みんなで』

【歩くリトマス試験紙の反応記録】生と死は切り離せない

生と死は切り離せない

 

2020年9月11日 自宅

 

死を避ける。

 

その気持ちが、よくわからない。

 

 

死という言葉

 

感染症の流行もあって、いつもの年よりもよく目にする。昔に比べて、普段の生活から死が遠のいた日本では珍しい現象だ。まぁ、死が遠いのは表面だけだ。実質では、死との距離は何も変わっていない。

 

生まれる前から三途の川の常連、父が遅くに生まれた子だったため親戚の葬式が多かった。母の家系は寿命が短い。貧弱体質で病院に行く回数が多すぎて、故郷に帰ったような気分になる。トドメに、電話の最中に母が突然死した。

 

そんな人生を歩んできたので、私にとっては死とは身近なものだ。死の気配がしても、目をつぶるのではなく危険を避けるために観察する。そんな視点で世の中を眺めていると、生と死の差はあまりないと感じる。寿命が延び、医療技術が発達した現代日本でも。

 

高齢者

持病持ち

危険地帯

 

よく言われる死にやすいと言われる条件だ。個人レベルだと、死とはあまり関係がない。確かに、万単位の国家レベルだと死亡率が上がる。だが、一人の人生では決定的な条件にはならない。どれほど状況が悪くても生き残ることがある。

 

私、どう考えても死が近い。生まれる前から命の危機な貧弱体質、成長期は栄養失調と修羅場のコンボ、現在もフラフラだ。死にそうになった回数なんて覚えていない。突いたらすぐ死にそうな存在が生きている。それなのに、食べる心配をしたことがない若く健康な人が毎日のように亡くなっている。そういう現実をみると、生死というのは不思議なものだと感じる。

 

今さっき話していた人が、その日の晩には冷たくなっていた。

 

それまでも、生死というのは切り離せないと感じていた。突然だった母の死が、そこに補足をくれた。『コインの裏表のように生死はくっついている。そして、見える面は簡単にひっくり返る』と。生と死の差なんて、紙一枚分の境もないと気づかされた。

 

結果、『1秒後は過去、1秒先は未来』という思考になった。人間なんて脆いもので、ちょっと転んで頭をぶつけただけでも打ち所が悪ければ死ぬ。後先をまったく考えないのは困りものだが、気にしすぎて今を犠牲にするのはよろしくない。だって、いつ死ぬかなんてわからないのだから。私のように死が悪友じゃなくても、1分後に死んでいてもおかしくない。それは古代も、中世も、現代も、おそらく未来も変わらない人の宿命だ。

 

なので、老後とか、リタイアとか、後に楽しめばいい思考を個人的にはお勧めできない。年齢が上がると身体機能が落ちる。体を悪くすれば、私のように常時痛みに苦しんだり、自由に外出ができなくなったりする。元気な時に予想していたような望みはまず叶わない。健康は死よりもたやすく失われる。若さや健康があるうちに、できることはしておいた方がいい。

 

生まれれば、いつか必ず死ぬ。

これぐらいしか、言い切れるものはないのだから。

 

 

死というゴールは全員同じだ。

違いは、たどり着くまでの距離ぐらいである。

 

 

 自己紹介でもある記事

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