歩くリトマス試験紙の反応記録

『ありのままに、ゆったりと、みんなで』

【病院スクランブル】学歴は当てにならない

学歴は当てにならない

 

2019年4月24日 自宅

 

1日中ベッドの上生活から復帰して、約1年が過ぎた。うまく口から言葉が出なかったり、5分歩くだけでぜーはーぜーはーしていたのも、もはや記憶の中だけだ。身体のきしみが軽い日に限るが「病気を患っているようには見えない」と言われるほど元気になった。この1年を振り返る。最も変化したのは人との交流だ。1ヶ月に出会う人数が桁違いだ。1部屋と電脳世界だけの暮らしと違い、刺激的な毎日である。

 

どんな場所に向かっても、必ず耳に入るのは学歴だ。現在の職業がメインだが、ある程度の時間を話せば学歴が出てくる。そして、これほど当てにならない目安もない。学生当時の成績ですら、まったく参考にならない。

 

この1年、いろんな場所に出入りをして多くの人に会った。その中でつくづく感じたことがある。『類は友を呼ぶ』この言葉の当てはまるパターンの多さだ。同じ大学出身でも、選ぶ話題も時間の使い方もスタッフへの対応も違う。集まった人たちの似た者同士ぶりとは比べるまでもない。ツイッターのプロフィールが投稿の質を保証しないように、学歴は人間性の保証書にはならない。

 

さらに言うならば、知識の豊富さも当てにならない。昭和の時代は学んだ知識が50年もった。だが令和の時代は3年もつかも怪しい。生涯学習の時代だ。先端技術であればあるほど、知識の寿命は短い。「こんな最新情報を持っている」と高らかに語る話題が、10年前の知識だったりする。語る本人は気づいていないが、周りの目は呆れている。

 

学歴で人は測れない。過去に努力した証、それが学歴だ。今の姿を映し出してはいない。学歴を看板に、信用を演出する。実力以上の評判を得ようとする人もいる。過去の頑張りを活かしているだけだ。盛大にアピールするのが当然だと思う。けれども、受け手は「現在の実力は、性格はどうなのか?」と考えておきたい。特に、仕事を依頼する時は忘れてはいけない。

 

1作目が面白くても、2作目が面白いとは限らない。

 

 

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