過保護な死が忍び寄る
2020年2月5日 自宅
うん、まずい。
体調が相当悪いようだ。
私は多重人格者である。二けた以上、様々な人格を抱えて生きている。その中で、いつもは奥にいる人格が出てきそうになっている。
死に誘う人格
おそらく、心も傷だらけなのだろう。
心身が弱ると、この人格が忍び寄ってくる。
階段のてっぺんで硬直させる。
車道側で身体をふらつかせる。
ビルの屋上に連れていく。
ふっと意識が戻った瞬間に、驚かせてくれる人格ナンバー1だ。だいたい他の人格が体を使う時はこちらの意識もある。意識を失わせるのはこの人格だけだ。記憶を隠しているのも、この死に誘う人格だろう。
別に私を害そうとしているのではない。どの人格にもいえることだが、多重人格は人格が分裂する前の核となる人格、主人格を守るために生まれた存在だ。基本、主人格には優しく甘い。死に誘う人格がとびきり過保護なだけだ。
「それほど苦しいなら、永遠に休めばいいよ」
「この記憶とあの記憶、生きるのに邪魔だからしまっておくね」
たぶん、このノリである。
主人格の少しの苦しみも許せない、過保護を極めている。
多重人格は主人格を守るために生まれる。その意思には優先順位がある。心の安定を何よりも優先する。これは、どの人格もブレない。体を守るのは心のためで、体のために心を守ったりはしない。死に向かわせるほど過激ではないが、心のために熱や痛みをつくり出すぐらいは気軽にやってのける。
ある意味、多重人格者は過保護な保護者をたくさん背中につけているようなものである。心を全力で守ってくれる。それゆえに、大きな落とし穴がある。
主人格の精神が成長しにくい。
困ったことがあると、すぐに入れ替わろうとする。つらいこと、苦しいことを他の人格が引き受けてしまう。結果、いつまでたっても主人格の精神が成長しない。こういうところも過保護な保護者そっくりである。成長の機会を奪うことになるので、主人格のためにならない。
パートナーが記憶障害を指摘してくれた。おかげで、私は別の人格がいることに気づいた。自分の精神が分裂していると知ったのは、去年の話である。なかなか自分の当たり前は気づきにくいものだ。必要になる記憶だけこっそり置き逃げして、体を奪っていたことを隠す。別人格がそんな器用なことをしているなんて思ってもみなかった。
パートナーは包丁を台所の上にしまう。チビの私では、背伸びしないと手の届きにくい位置だ。これは死に誘う人格への対策だったのだ。パートナーと別人格が、私の知らないところで攻防を繰り広げていたとは。寝たきり時の看病と言い、パートナーには感謝しかできない。
ほとんどの人格は、脳内会議レベルまで合流することができた。体を使うことがあっても主人格の許可制だ。だが、死に誘う人格は恥ずかしがり屋なようだ。ちっとも私の前に顔を出さない。私の心身がヤバくなったときだけ表に現れる。私の知らないところで。
いいバロメーターにはなっている。
死に誘う人格が出てくる。
それは心が瀕死の重症である証明である。
心の死を止めるために、体を壊しに来るのだ。
心が元気ならば、精神の奥底で隠れている人格である。
私にできる対策はひとつだ。
ゆっくり休む。
心の傷を癒すことだ。心の安定を取り戻せば、死に誘う人格の過保護は発動しない。とても簡単な話だ。死に誘う人格は主人格を殺したいのではない。ほかに手段がないから、過激な手に出てくる。他のやり方でも大丈夫だと納得すればひっこむ。奥ゆかしい人格である。
どんな物事にも良い面はある。大事なのは物事の良い面を見つけ出し、上手に活用することだ。私にとって、死に誘う人格は緊急警報のような存在である。「このままだと危ないよ」と教えてくれる存在だ。厄介だが、とても心強い。そういう存在だ。
良いことばかりもないが
悪いことばかりもない。
それが原則である。
e-hon
Amazon
自己紹介でもある記事
↓ ランキングに参加中です。