八つ当たりの顔は美しくない
2020年2月6日 自宅
ダメだ。
これじゃダメだ。
なんとか落ち着こうと深呼吸をした。
無性にイライラする。いつものように、にこやかにスルーできない。ちょっとしたことが、いちいち神経にチクチク刺さる。気を抜いたら、嫌なことばかりを口にするおばちゃんになってしまいそうだ。
私の心身はかなり弱っているらしい。
元気な時は、こんな風にはならない。多少、イラっとすることを言われても「いい観察対象がきた」、なんて喜ぶ余裕がある。そんな余裕を持てないということは、自分自身が心身ともに弱っている証拠だ。
イライラしやすい時、私の対処法はこれだ。
黙る。
動かない。
楽しいに飛びこむ。
イライラを言葉に乗せても、ロクなことにならない。あとで後悔するような事態を引き起こすだけだ。行動についても同じである。言ったことも、やったことも、実行してしまえば取り消すことは出来ない。だから、まずは言動を停止する。
これだけだと、いつまでたってもイライラが収まらない。言動を止めていることは、我慢を続けているようなものだ。どこかで我慢のフタが外れて、感情が爆発してしまう。
過去に激怒した時は、怒りの対象者以外にも背筋がぞわっと冷える恐怖を振りまいてしまった。周りにとっては、とんだとばっちりである。『氷のナイフのようだった』というコメントを頂いてしまった。我慢は永遠には続けられない。
どこかでイライラを解消しなければならない。楽しいことにすべてを忘れるほど没頭することで、私は解消している。イライラがどうでもよくなるほど全力で楽しむ。自分のイライラは自分で責任をとる。
こんな考え方をするようになった。その原因は母である。心が弱い人で、すぐにお酒に逃げていた。モノを投げたり、わめくなど暴れた。母の心を落ち着かせるために、聞き役になるのが小学生の時の日課だった。壁に叩きつけられて壊れた目覚まし時計に、もったいないと常に思っていた。そんな生活の中で誓った。自分は八つ当たりしないぞ、と。
のちに集団のいじめを食らい、ストレス発散のサンドバックのような立場になった。親せきからも嫌味をぶつけられた。私の八つ当たりしないという誓いはさらに深まった。なぜならば、自分の感情を人にぶつけることで晴らす。その人たちの顔が美しくなかったからだ。同じ存在にはなりたくなかった。もはや、意地である。
自分の感情は、自分で引き受ける。
この誓いは、現在も継続中である。
けれども、実行するのは難しいものだ。イライラを抑え込んでいるつもりが、水漏れのようにチョロチョロとにじみ出てしまうときもあるようだ。たまにパートナーに「俺に八つ当たりすんな」と怒られる。申し訳ないと謝る一択だ。心の中で、不機嫌になるとプンスコして足音すら変わる。気分屋のあなたに言われたくないと思いながら。
誓いを完全には守れない。
自分の未熟さに呆れる日々だ。
それでも、自分の感情を引き受ける誓いをおろす気はない。イライラを抑えようともがくこと自体に、意味があると感じている。少なくとも、誰かを踏みつけにするのが当たり前だ。そういう人生を歩んでいる、醜くゆがんだ表情をした存在になることは防げているのだから。
憎い相手と同じ行動で仕返しをすることは、
憎い相手と同じ存在になる道である。
この道を、後戻りすることができない。
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