歩くリトマス試験紙の反応記録

『ありのままに、ゆったりと、みんなで』

【歩くリトマス試験紙の反応記録】感染拡大中、だが私には関係ない

感染拡大中、だが私には関係ない

 

2020年2月20日 自宅

 

世間が新型コロナウイルスの感染拡大で騒いでいる。だが、私の生活には関係がまったくない。なぜならば、何も変わらないからだ。

 

日々の生活が。

 

こちとら免疫異常・ぜんそく・腎臓弱い・原因不明の症状など、異常のデパートである。感染症対策なんぞ、生まれた時からしている。小学生の頃に感染症と急性腎炎のコンボで入院、2週間ほど個室に隔離されたこともある。新型コロナウイルス対策の行動は、ただの私の日常である。

 

むしろ、自分の対策の方が厳しい。

 

不要不急どころか、病院の診察や役所の手続きですら『体調悪いなら、電話でOK』と勧められるレベルである。人混みアウトどころか、人の少ない場所の外出すらアウトである。マスクだけ、そんな甘い対策じゃない。布手袋にビニル手袋常備、感染率を少しでも下げるために手首・足首・首の三か所は冷やせない。特に首は冬はマフラー、夏も『絶対に冷やすな、スカーフを持ち歩け』と言われる。冷たい水なんぞ、とんでもない。常温の水と薬はお出かけ時も手放せない。公衆トイレに設置されているジェットタオルには決して近づかない。ハンカチ・ティッシュ・ウェットティッシュの三点セットは必需品だ。

 

家でだって、油断はできない。換気は暑かろうと、寒かろうと定期的に行う。そのうえで、空気清浄機がフル稼働である。季節に合わせて、除湿器と加湿器のどちらかが使用される。自律神経がぶっ壊れているので、外気に体温が引きずられる。体温34~40℃をウロチョロしてしまうので、エアコンは1年のうち10か月はつけっぱなしである。ここまでしても、ちょっとでも無理をすればすぐに体温が上がる。顔が真っ赤になり、ゴホゴホ咳がでる。結果、家族に布団へ叩き込まれる。

 

 こんな生活を繰り返しているので、新型コロナウイルス対策はたやすいとしか言いようがない。どう考えても、自分基準の方がとてつもなく厳しい。

 

「生活費に不安がないのか?」

 

水道止められて、ごみを漁った体験もある。手元にお金がある状態で、不安になるはずもない。

 

「ずっと、家にいてストレスはたまらないのか?」

 

 小学生で病室に隔離のとき、腎臓も弱っていた。読書は禁止、テレビ視聴は1日1時間、ネットなんてものはなかった。もしあったとしても、許可はでなかっただろう。ベッドから降りることすら、トイレのときしか許されなかった。そして、食事はまったく味のないゆでた大根と鶏肉と白ご飯である。デザートにヨーグルトがつく。だが、乳製品のアレルギーだった私はデザートなしである。そして、人に危険な病をうつす可能性が高いので、1日のほとんどが一人ぼっちである。何もすることがない状況で、ひたすらベッドに横になっている。そんな生活を2週間、小学生の身で耐えた。

 

これに比べれば、引きこもるだけなんて天国である。

 

本読み放題・ゲームやり放題・動画観放題にインターネットもある。食事はおかずもいくつかあり、もちろん味もついている。家族もすぐそばにいて、いくらでも会話ができる。運動不足解消用のルームランナーもある。5年外出禁止でも、痛くもかゆくもない。パートナーが『映画行きたいよー、レストランでステーキ食べたいよー』と騒ぐのも、そよ風のようなものだ。

 

「死ぬのが怖くいないのか?」

 

まったく怖くないわけじゃない。だが、二ケタ臨死体験の三ケタ死にかけた生き物なので、死の恐怖には慣れっこである。死神さんがたまに会う悪友のような存在である。最悪のパターンになれば、自宅で死ぬ可能性すらある心身だ。死ぬかもしれない、なんて感情は珍しくもなんともない。

 

いざというときは、心肺呼吸器を譲る覚悟もできている。新型コロナウイルスに感染して重症化したら、まず助かる可能性は低い。余裕があるならば、ありがたく使わせてもらう。けれども、足りないときはサクッと譲る。病院の方に、さらなる心労をかける気はない。

 

インターネットや新聞などで、いろんな方の不安を目にする。思わず、笑ってしまった。不安を笑ったのではない。ネット上で語られる不安をほとんどを個人レベルでは体験済みだからだ。大切な人の死に目に会えないのも、お前が殺したと責められるのも、病気のことで差別されるのも、その他のことも体験済みである。笑うしかなかった。

 

 世間が騒いでも、不安にすらならないはずだ。

過去の自分が乗り越えた、経験しか見当たらないのだから。

 

自分の気持ちに他人は関係ない。世間の動きも多少は影響があるが、突き詰めれば関係ない。目の前に自分よりも状況が悪い人がいても、この人よりマシだからと不安は消えない。自分で納得しない限り、いつまでたっても不安である。

 

新型コロナウイルス騒ぎで、私は不安にはならない。いつ自殺するかわからない母親を半年以上も介護を続けた日々に比べれば楽勝でしかない。当時はバブル期で日本全体が楽しそうだったが、自分には関係なかった。食べるものもなくフラフラ、集金の人に頭を下げ、柱に縄をかけ首を突っ込んだ母を必死で止める。そんな毎日に、世間なんぞ何の関係もなかった。

 

そして今、世間は不安の嵐なのに私は平然としている。

人生の皮肉を感じて、笑うしかなかった。

 

世間をみて、思う。

 

私の目には、自ら不安の嵐に飛び込んでいるようにしかみえない。これまでの常識が崩れたのだ。不安になるのは当然だ。だが、出来ないことや無くなるものに集中しすぎている。手の中に残っているものやこれからの時代の変化に気持ちを向ければ、不安を軽くすることができるのに。少なくとも、多くの人には自由に動かせる体がある。もったいないな~と感じてしまう。

 

貧弱体質のひがみ感覚だと、わかってはいる。

そんな自分が無性におかしかった。

 

 

 不安というのは、どこまでも個人的なものだ。

 

 

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