個人と世間の温度差で砕け散る
2020年3月4日 自宅
人生とは、おかしなものだ。
真逆の展開に、苦笑しか浮かばなかった。
今日も変わりなく、世間は新型コロナウイルスで騒がしい。一部の商品が品薄だの、外出を控えた方がいいだの、いろんな意見が飛び交っている。日に日に、人をいらだたせる情報が増えていく。
そんな中、私はニコニコしていた。
世の中が混乱しているのとは別世界である。
おうちで楽しめるサービスの増加
長時間の外出に耐えられない。
人混みは避けなければいけない。
貧弱体質ゆえに諦めるしかなかった。一度味わってみたかったサービスが、オンラインに続々と進出してきた。他にも有料だったサービスが無料になったり、楽しめる種類が増えたり、知らなかったオンラインサービスを教えてくれるサイトも出現した。
時間がいくらあっても足りない。
嬉しい悲鳴である。
活字中毒の私にとっては、さらに嬉しい情報が入ってきた。絶版で手に入らなかった本が多数、電子書籍で再び出版されるというのだ。私のテンションは天を突き抜け、宇宙に飛んでいった。
世間との温度差で、耐熱ガラスすら砕け散りそうだ。
過去とは、まったく逆である。
バブル期、テレビの中だけでなく、街中でも多くの人が楽しそうだった。派手な生活をするのが当然で、生活が悪くなるなんて発想はない空気だった。
その時の私は食べるものに困り、親に言われるまま「お母さんはいません」と集金の人にウソをつき、心中未遂の危機が何度もあった。未来を考える余裕なんて欠片もなく、その日を生き抜くことも考えられず、目の前のトラブルを片付けるのに必死だった。
ふとした瞬間にみえる周りの姿は、画面の向こうに世界にみえた。同じ世界に生きている、そんな風には思えなかった。浮かれている世間との温度差は、鉄すら砕いただろう。
現在と過去、対照的なふたつを見比べる。
ある単純すぎる事実に気づいた。
個人と世間はイコールではない。
どれほど世界が荒れ狂っても幸福
世界がどれほど喜びにあふれても不幸
どちらも成り立つ、と。
大きな視点でみれば、個人と世間は無関係ではない。古代に比べれば、日々の生活に苦しんでいる人も、お金をいくら使っても減らないような人も、共に生活レベルは上がっている。『きれいな水をいつでも飲める』なんて日本の環境は、古代では世界一の権力者すら叶えられなかった。
だが、古代と比較して幸福を語る人はまずいない。同じ時代に生きる人々を基準に、人は幸・不幸を語る。その視点でみれば、やはり世間と個人の幸せは関係ない。
「周囲が大変なのに、楽しむなんて」
大きな災害があった後に、自分の喜びや楽しみを押さえつけてしまう人がいる。それは、気にしすぎである。ハッキリ、言おう。人生修羅場の最中に、他人の行動を気にしている余裕はない。生きるか死ぬかのトラブル中に、他人の生活なんぞどうでもいい。
TVドラマ『家なき子』であったセリフ
「同情するなら、金をくれ」、この通りだ。
同情されても、1ヶ月以上食べていないお腹は空っぽのままだ。思う存分に人生を楽しんで、100円を渡される方がよっぽどありがたい。当時、100円あれば、おにぎり1個は買えた。それを食べれば、3日は空腹がマシになる。『100の同情より、1つの硬貨』、それが貧困の現実である。
新型コロナウイルスで騒いでいる世間を脇において、私はダウンロードした電子書籍の世界をまったりと楽しんでいる。外出しなくても体調を崩せば、私は病院の負担を増やす。ただでさえ感染症の騒ぎで大変なのに、救急車で急患が運ばれてきたら、もっと病院は大変になる。新型コロナウイルスの騒ぎで心を痛めるより、楽しく毎日を過ごす方が病院にとっては助かるのだ。
だから私は、いつも以上に楽しい時間を増やしている。ここでは、個人と世間の利がイコールになった。なんとも、皮肉である。
きれいな言葉は耳に優しいが、
中身の重さは紙より軽い。
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自己紹介でもある記事
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