楠木正成公に不運の対処法を学ぶ
2020年4月16日 自宅
ツイッターで楠木正成公の話題を目にした。繰り返し読む逸話を読むほど、大好きな武将だ。ちょっとコメントをつぶやいてみた。そうしたら、楠木正成公を祀る神社から返信がついた。もっと注目されてもいいのに。そんな個人的感想を書いただけなのに。オドロイタ。
楠木正成公
大軍を相手に少数で城を守り切った、派手な話が有名である。華々しいイメージがあるかもしれないが、その生涯は不運だらけとしか言いようがない。
身分の低さで貢献を認められない。
最善策があっても、実行を許されない。
最期は捨て駒扱いされる。
戦果に比べて、あまりに扱いがひどすぎる。楠木正成公に限らず、英雄と語られる活躍をした人は不運な人がとても多い。なぜならば、真っ当に評価されていたら厳しい立場にならないからだ。明らかに負ける状況をひっくり返したからこそ、英雄と呼ばれる。不運でなければ、最初から負けるような戦場には送られない。
楠木正成公の少数で年単位、城を守り切ったエピソードはわかりやすい。兵の数も少なく物資も足りない中、城を守ったのはすさまじい。だが、考えてみてほしい。援軍があれば、孤軍奮闘する必要はない。長い間、援軍がなかったから少数で守るしかなかった。これを不運と言わずに何と言えばいいのか。
最期はもっと悲惨だ。身分の高い人たちのメンツのために最善策は却下され、負けるとわかっている戦場に行くしかなかった。そして、反対をした人たちは責任を取らず、命も奪われていない。有名武将の不運ランキングがあるとすれば、上位10以内に入るであろう報われなさだ。
これほど不運なのに、楠木正成公の逸話には暗さがない。それは、楠木正成公が運命に抗ったからだ。どんな不運な状況でも、最期まで楠木正成公は諦めなかった。
不運というのは避けられないものだ。どれほど頭をひねり、手を尽くし、すべてを賭けてもダメな時はダメだ。これは、人にはどうしようもできない。だが、不運に対してどういう態度をとるか。これは自分で決められる。
ただ、泣きわめき当たり散らすのか。
嵐が過ぎ去るのを、ぐっと堪えるのか。
少しでも状況を良くしようと、もがくのか。
どれがいいかは状況による。当たり散らすのはお勧めできないが、泣きわめいてストレス発散はありだ。動くとさらに状況が悪化するので、ただ耐えるのが最善な場合もある。不運の脱出口が見えるまで、手探りで進むのが良い時もある。
諦める。
諦めない。
この言葉は反対言葉のようで、ふたつの共通点がある。ひとつは状況判断をしていること、もうひとつは自分の意志で決断していることだ。誰かの意見でやめるのは諦めるのではない、流されているだけだ。自分で決めていないから、後からグダグダ悩みだす。悩むということは、諦めていないということだ。
楠木正成公は不運だった。周囲に振り回され、思うように動くことすらできなかった。そんな中でも結果を出し続けた。それは感情にとらわれることなく冷静にすべてを観察し、選べる中で最善の手を考え、その考えを基に行動を続けたからだ。不運にすねてやけっぱちになっていたら、現代まで名が残っていなかっただろう。
「なんで、自分だけ」
不運は恨みたくなるものだ。貧弱な体で生まれたことを恨んだことはないとは言えない。けれども、恨みで止まったらより不運を引き寄せるだけだ。状況を少しでも良くしたければ、不運をそのまま受け入れるしかない。健康な人と同じように動こうとしても、より体調が悪化しただけだった。日々が過ごしやすくなったのは、貧弱な体に合わせて、スケジュールを組み直したからだ。理想を描くのは後の話だ。まず、現状を冷静に分析する。それが、不運の対処法だ。楠木正成公の人生が私にくれた学びである。
不運は当然という態度は、
人生を穏やかに過ごす秘訣である。
e-hon
Amazon
自己紹介でもある記事
↓ ランキングに参加中です。