毒という個性
2020年5月16日 自宅
なんで?
アクセスが増えた理由がわからなかった。
現在、ブログ記事の投稿数が400を軽く超えている。そうすると、アクセスが多い日の傾向がみえてくる。うちの傾向はこれだ。
内容がえげつない。
きつく書きすぎた、読者が減るかも。
だが、これが私の感じたことだ。
ええい、投稿しちゃえ。
こういう時にアクセスが増える。さらに言えば、読者登録も増える。そんなに世の中は毒を求めているというのか。最初は、そんな勘違いをしていた。読者の皆さまにいただいたコメントで間違いに気づけた。毒が求められていたのではない。
毒からの変化がお望みだった。
人生の猛毒を、私は何度もかぶっている。その結果、隠されている毒も見抜けるようになった。世の中にあふれる毒々しい内容ならばザクザク書ける。けれども、そのまま書く気はない。締めは明るくが基本である。
『人生が修羅場なのに、なんで物語の世界でまで悲しまなきゃいけないんだ』
これが、人生が修羅場中の我が心情である。アンハッピーな物語を否定する気はない。哀しい展開でしか描けないものもある。今では、私も悲劇と言われる物語をそこそこ読む。けれども、自分で書く気にはなれない。終盤までの展開が重苦しく救いがないのはいいが、結末は輝かしくしたい。ちょっとした薄暗さは残すが。
つまりハッピーエンド、せめてトゥルーエンド主義である。ということは、内容がえげつないほど文章は激しくなる。玄関の段差につまづきとビル10階から落下の違いである。すり傷が治るまでの話と全身複雑骨折が完治するまでの話では展開の幅が違う。
そう考えると、私の個性は毒だと言い切れる。毒のような言葉とハッピーエンドだからこそ、文章に化学変化が生まれる。自身でもキツイと感じる言葉だからこそのギャップだ。砂糖菓子のような言葉とハッピーエンドでは何の変化もなく終結だ。
そう考えると、私は感謝すべきだ。
修羅場多き人生に。
毒の源はこれまでの経験である。
数多き修羅場よ、ありがとう。
あのしんどさを二度と味わいたくはないが。
毒が個性、この事実はもうひとつの事実を浮かび上がらせた。私には、春の小川のような穏やかな話は書けないということだ。急流下りや大滝からのダイブのような話がふさわしい。または、虫も寄らないどぶ川を魚が泳ぐ川によみがえらせる話である。
憧れる文章と書ける文章は違う。
筆者の本質をごまかすことはできない。
文は人なり、苦い気づきだ。
個性がないよりは、よほどいいが。
毒持ちモンスターを
忘れるプレイヤーはいない。
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自己紹介でもある記事
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