歩くリトマス試験紙の反応記録

『ありのままに、ゆったりと、みんなで』

【歩くリトマス試験紙の反応記録】教えることは教わること

教えることは教わること

 

2020年6月14日 自宅

 

この場をどう乗り切ろう。

 

笑顔の裏で冷や汗をかいていた。

 

 

うちで一人、英文法の問題で頭を抱えている。最も苦手な科目は理解に時間がかかる。辞書を片手によどんだ目になっている気がする。基本、私の学びは独学だ。体調を最優先にマイペースで進めていく。義務教育の時も休みに休んでいたので独学に近かった。過去とは違い、今はインターネットでヒントを探せる。いい時代だ。

 

ただ、独学ゆえに知識は穴だらけだ。興味の向くままなので、学校で学んだ人たちと違い知識が海底のように深い所と水たまりよりも浅い所がある。知らないことは数多い。

 

それなのに

 

なぜか、人によく質問される。「これを知っているのだから、あれも知っているはず」というノリでよく聞かれる。こちらの能力試しなら、わかりませんと言えばいい。もの知らずと馬鹿にされても何とも思わない。その通りなのだから。

 

けれども、弱りきった様子で聞かれると知らないと返しにくい。不正確なことは言えないので、調べモノの海に飛び込むハメになる。結果、知識が増える。私の知識の多くはそうやって広がっていった。

 

知っている場合でも、少しでも情報の確かさに不安があれば調べる。こういう不安はたいてい当たる。情報が欠けていたり、古かったり、誤っていたりする。質問がきっかけで、ウインドウズOSの更新のように知識が更新される。

 

誰かの質問に応えるたびに自分の知が磨かれていく。だから、私は真面目な質問はまず応える。このメリットに気づいたのは学生時代だった。

 

学生時代、友人の勉強を手助けすることが多かった。授業でわからないから助けを求めてくるのだ。教科書通りの説明では理解してくれない。だから、相手な好きなモノを使った例え話でよく説明した。

 

例え話は知識と知識をつなぐ行為だ。教科書と例える先、どちらもきちんと理解していないとパズルのピースがピタリとはまるような話は作れない。相手の顔に「わかった」が浮かばない。『あぁ、自分の理解は甘いのだ』と気づく。ちょっと時間をもらって教科書を読み直し、自分の足りない部分を訂正する。それから、説明するとうまくいった。

 

これを何度も繰り返せば、鈍い私でもわかった。

教えることで自分の知識の盲点を教わっているのだ、と。

 

私の知識が身についたと判断する基準はふたつだ。まったく前情報がない人に伝えられること、苦手意識を持っている人の理解の手助けができることだ。どちらかというと、苦手意識の人に説明をする方が難しい。まず、ピントがずれた理解をゼロに戻すところから始めないといけない。方向音痴の人がわかる地点まで引き返すように。

 

人に何かを教えるのは難しい。知識の理解だけでなく根気もいる。相手が受け取れるまで例え話のボールをあらゆる方向から投げ続けないといけない。理解してくれたと思ったら、後日、またわからなくなったと質問されたりもする。相手に悪気はないので、責めるに責めれない。精神も鍛える行為、それが教えるだ。

 

とても楽な行為とは言えない。

だが、それだけに得られる果実も大きい。

 

たとえ、予想外の質問で困り果てたとしても。

 

 

誰かに教える声は

自分の耳も聞いている。

 

 

 自己紹介でもある記事

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