文章の基準は、しんどい時
2020年1月17日 自宅
今日の体調もよろしくない。ブログ記事を書きだめしたいが、本日分を書くだけで精一杯だ。手術日まで1週間を切っている。ハラハラする気持ちは胸いっぱいだが、焦っても仕方がない。イザとなったら、ブログ記事の更新休止を告知する気だ。なりふり構わなければ、文章3行を投稿して連続更新中と言い張れる。私はそんなことをしたくない。
さて、本日もダラダラ生活が決まった。
時間ができたので軽めの本を読む。
こういう体調が不安定な時は、頭をビシバシ使うような本は選ばない。マンガか、児童書か、詩を読む。水がタオルにしみこむように、わかりやすいモノを選ぶ。
ありがたいことに、読者の方に『わかりやすい』とのコメントを頂くことがある。毎回、頭をグルグルひねりながら書いている。だから、わかりやすい文章が書けている。そうではない。
マンガや児童書、詩のおかげである。
マンガからは、ことばのインパクト
児童書からは、ことばのやさしい表現
詩からは、ことばに心をこめること
書ききれないほど、多くを学んでいる。
ある悲しい現実がある。
頭のいい人の書く文章の多くは、とても読みにくい。
自分を基準に書くので、とてつもなく難しい文章になる。周りの意見を参考にしても無駄である。頭のいい人の周りには、頭のいい人が集まりやすい。理解しにくい文章も友人・知人にわかりやすいと言われる。なので、自分の基準でも大丈夫だと勘違いする。結果、難しい言葉の多い、何を伝えたいかよくわからない、読みにくい長文になる。
私は活字中毒だ。長文で難しい文章を、推理小説を読んでいる気分で楽しめる。頭のいい人と同じ落とし穴にズドンとハマりやすい。避けられているのは、病気のおかげである。
しんどい時は読む力が常の10%もない。作業の片手間で読めた文章が、ちっとも頭に入ってこない。おまけに、長文を読むと発熱と咳がコンニチハする。どうにも手のつけようがない。
このタイミングが、私の文章の基準だ。
熱でフラフラでも読める文章なら、
多くの人が読みやすい文章になる。
そんな風に思いこんで、毎回、書いている。以前は小学生が基準だったが、イメージがほわほわしてつかみにくい。なので、体調の悪い自分を基準に変更した。最も付き合いの長い自分自身が、やっぱりイメージしやすい。自分基準も使い方次第である。
わかりやすさは答えのない宿題だ。
時と共に、わかりやすさも移り変わるのだから。
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