なぜ、文章を書けるのか?
2020年2月7日 自宅
「なんで、書けるの?」
私が知りたい。
なぜか、よく聞かれる質問がある。『文章の書き方を教えて』、この質問が来るたびに心の冷や汗がダラダラ流れる。なぜならば、私にもサッパリわからないからだ。
「毎日、ブログ記事を書いているじゃないか?」
すべてノリで書いている。プロットをつくったことも、調べた資料をまとめたことも、伝えたいテーマを箇条書きしたこともない。頭に浮かぶ言葉を書き殴っているだけである。計算して書こうとすると欠片も手が動かない。すべてをノリに任せて書いている。なので、書き方を聞かれるとすごく困る。
しかも、聞く相手が自分よりも凄い。私が真剣に文章を書き出したのは2019年の1月だ。ハイパーペーペーである。こちらが教えを乞う側である。それを伝えると、まず最初は笑われる。
「冗談でしょ」
ガチである。
文章は読む専だった。
まず、小論文を書いたことがない。高卒だが、12年の学生生活の半分以上を休んでいた。日記や作文に読書感想文も、皆勤賞の人と比べれば10%も文章を書いていない。アニメやゲームのパロディ小説を書いたことはあるが、すべてを足しても原稿用紙100枚分もない。
文章の書き方の指導を受けたのは1時期だけだ。天狼院書店という場所で半年ほど学んだ。これも理由には弱い。最初の課題で3,000字以上の文章が書けたからだ。そこの講師の方にも、なぜ書けるのか聞かれた。
この時は、なぜ書けるのかの結論が出なかった。
今は理由がわかっている、なんとなくだが。
活字中毒
文章をひたすら読み続けた結果だろう。
どれほど記憶を振り返っても、文章を読まなかった日が出てこない。3歳のときには絵本を自力で読んでいた。幼稚園に入園の頃には、近所の男の子に絵本の読み聞かせをしていた。入院中に読書を禁止されたときも、医療器具の説明書や食事についてきたジャムの食品表示をむさぼるように読んでいた。食事を忘れた日はあっても、文章を読むのを忘れた日はない。高熱でうなされた日も、流血した日も、母を亡くした日も、どんな時も文章がそばにあった。
「活字中毒のレベルがおかしい」
同士であるはずの活字中毒者に言われたことがある。
とても納得がいかないコメントだ。
朝7時に本を読みだした。
気づくと周りが暗い。
時計をみたら、夜8時だった。
開店と同時に書店に入った。
ふと気づくと、蛍の光が流れている。
閉店時間になっていた。
好きな本を読み続けていたら、
ページが外れてしまった。
ここまで話しただけで、おかしいとツッコまれた。
まだエピソードの半分も伝えていないのに。
ちなみに開店と同時に書店に入り、閉店と同時に出ていく。同じエピソード持ちの同士に出会ったことがある。書店を出る時に何冊か本を買うところまで同じだった。ブックオフは100円の本があるのでお得、なんて話で盛り上がった。同類がいたのだから、私は特殊ではない。
文章を読んだ時間どころか、これまでの人生で何冊の本を読んだのかすら分からない。小学生のとき、学校の図書館にあった本は読みつくした。これだけでも1,000冊は余裕で超える。おそらく1万冊はくだらないと思う。マンガやネット小説を本カウントしたら、10万冊を超えているかもしれない。
人間の脳は、見たものをすべて記憶しているらしい。思い出せないのは、ただ脳内から記憶を引き出せないだけだと聞いた。つまり、私の脳内には少なく見積もっても1万冊分の文章が詰まっている。そりゃ、文章を書けるはずだ。
この結論、私の助けにまったくならない。
「文章の書き方を教えて」
「1万冊くらい本を読めばいいよ」
どれほどスパルタなのか。
嫌がらせにしか聞こえない。
私の悩みが消えることはなさそうだ。
簡単に身につく能力なんてない。
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