無意識の傲慢(ごうまん)
2020年4月20日 自宅
何もわかっていなかった。
自分の視野の狭さが嫌になった。
感染症について調べていた。
ある記事に、こう書かれていた。
アフリカでは複数の感染症をすでに抱えている人がいる。エイズの感染者が国の人口の過半数を超えている国もある。すでに病や貧困に苦しんでいる人たちにとって、新型コロナウイルスはさらなる苦難となるだろう、と。 薬どころか水も足りず、感染症の流行前と変わらぬ生活を送るしかない人たちの映像が添えられていた。
水不足
これまで食料問題を中心にしか捉えていなかった。少し考えればわかることだ。手洗い・うがいだけでなく、医療用品やタオルなどの洗浄にも水が必要だ。気づいていなかった自分の考えの浅さにガックリした。
どうしても、人は自分を基準に考える癖がある。だから、 自身の考えに同意しない人や同じ行動をできない人を責めがちだ。私は、これを無意識の傲慢(ごうまん)と呼んでいる。よくあるのが精神が壊れそうな人に「がんばれ」とか「努力が足りない」などと言ってしまう行為だ。こういった発言が自殺への最後の一押しになる例がよくある。言った側は励ましたつもりでも、言われた側は心をぐしゃりと踏みつぶされたような気持ちになる。悪意がないからこそ、より傷つく。誰かの気持ちに寄り添うのはとても難しい。
私も無意識の傲慢をよく味わった。子供の頃は日本の貧困はクローズアップされておらず、アレルギー症状もあまり知られていなかった。離婚も、精神障害も、原因不明の病気も、珍しかった。
「両親がいないなんておかしい」
「アレルギーは気のせい、食べ続ければ治る」
「お化粧できないなら、結婚できないね」
まぁ、いろいろと言われた。最初の頃は泣いてしまいそうになった。小学校を卒業する頃には慣れて、笑顔でかわせるようになったが。人間の慣れはあらゆる方面で万能である。ただ、言われ慣れても、何も思わないわけじゃない。嬉しくもないし、もやっとしたものは心にのしかかる。だからこそ、自分はするまいと決めていた。それなのに。
私も無意識の傲慢を追い出すことはできなかった。
自分の周りにきれいな水があるのが当たり前だったから、水がない恐ろしさに気づけなかった。食べるものがない時は、水をごくごく飲むことでお腹をごまかした。家の蛇口が使えなくても、公園などの公共施設を探せばよかった。手に汚れがこびりついたまま過ごすことはなかった。
水がない人たちは、空腹をごまかすことができない。病気を防ぐこともできない。ひたすらに耐えて生きるしかない。その厳しさに思い至れなかった。日本に生まれた。それが、どれほどの幸運だったか。自分の傲慢さが恥ずかしかった。
無意識というのは恐ろしい。問題は気づくことができれば、直すこともできる。だが、無意識は問題だということに気づけない。間違いに気づかぬまま、進み続けてしまう。自分を完全に理解できない人間には、無意識の害を防ぎきることはできない。けれども、無意識の過ちに気づきやすくなる方法はある。
無意識で過ちを犯している。
これを頭に刻んでおく。「私は間違っているかもしれない」と、自分の考えに常に疑いをかけていれば過ちにも気づきやすい。そして、自分の周りとは離れた場所にも目を向ける。苦手な分野や行ったことのない場所、年齢や国籍や性別の違う人たちと語り合う。これを心がければ、多少はマシになる。今回も他国の報道を調べたからこそ気づくことができた。
相手だけでなく、自分も疑う。
それが事実に少しでも近づくコツだ。
自分は正しい。
この考えになったとき、人はどこまでも残酷になる。
そして、
人には自分を正しいと思う回路が備わっている。
つまり、
人は残酷な生き物である。
正しさを疑うぐらいでちょうどいい。
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