歩くリトマス試験紙の反応記録

『ありのままに、ゆったりと、みんなで』

【歩くリトマス試験紙の反応記録】他人事だから言える

他人事だから言える

 

2020年7月24日 自宅

 

 

ふざけんな。

 

最初に浮かんだ言葉だ。

 

 

尊厳死

 

この言葉がニュースをにぎわした。インターネット上でも、この話題で意見が飛び交っている。他の話題と同じく、賛成側も反対側も議論を交わそうという意見は少なく主張をするだけの投稿がほとんどだった。

 

人の死がそれほど面白いか。

 

これが、私の抱いた感想である。苦悩を気づかう投稿は少なかった。尊厳死の場面に直面したことがない。それが言葉から伝わってきた。

 

「最近は治療の痛みが少ないから死ぬ必要はない」

 

感染症の流行で自宅にいることすら我慢できず文句を並べたてる。そんなニュースが毎日のように流れる中で、ベッドから出ることすらできない患者によく言えるものだ。

 

「生きてるだけで意味がある」

 

治療費や看病で負担がかかり、時に家族や周囲に恨みの眼で見られる。しかも、症状が回復する可能性が1%もない。どこの家庭も余裕があるわけじゃない。意味でご飯は食べられない。

 

「可能性がないなら死ねばいい」

 

それ、自分の大切な人にも実行できますよね? できもしないのに、まさか語っていませんよね? 自分が同じ立場になったら命を絶ちますね?

死病で苦しむ家族に『殺してくれ』とお見舞いのたびに頼まれる哀しみも、顔色が悪くなっていく家族へ感じる申し訳なさも、『早く終わってくれ』と心から願いたくなる激痛や息苦しさを耐える時間も、想像することすらない。

 

尊厳死から遠い世界、他人事だから言える投稿で溢れていた。思い浮かんだのが、ローマ時代のコロシアムだ。奴隷同士が殺しあう様を楽しんでいた人たちと何も変わらない。どちらも死を話題に面白がっている。

 

死の現場に繰り返し関わり、自分自身も死に近い体を持っている。そんな私には、ストレス発散のおもちゃ代わりに尊厳死を使っているようにしかみえなかった。たとえ、本人たちに自覚が欠片もなくても。

 

尊厳死について投稿をしようと思ったがやめた。どうせ、尊厳死の話題も世間には消耗品だ。年末の線維筋痛症の話題は1か月も持たなかった。いじめや貧困のような常に事件がある話題ですら一時しか注目をあびない。他人事な存在にとっては、死すら日常のちょっとしたスパイスだ。

 

人の不幸は蜜の味

 

この言葉は正しいのだ、どこまでも。

いつか、自分も蜜の側に立つかもしれないと気づけぬ人々には。

 

当事者の私には、とても言えない。

あんな言葉の数々は。

 

 

他人事

 

この立場にある時、

人はどこまでも残酷になれる。

 

 

 自己紹介でもある記事

www.ayube.jp

 

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